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歴史のターニングポイントとなった会議

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[歴史のターニングポイントとなった会議]2021.8.1

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 今月も歴史をテーマにコラムを書いてみました。歴史を変えていくきっかけの多くは戦争で、その勝者により歴史の方向性が決められていくのですが、会議の結果によって歴史が大きく変わったというケースもいくつかあります。(私が勝手に言っているだけですが、)日本の歴史の方向性を変えた三大会議ということで、「清須会議」「小山評定」「昭和20年8月10日の御前会議」が挙げられます。
 何故、歴史の方向性を変えた重要な会議かというと、例えば清須会議において、羽柴秀吉が柴田勝家に論破されていれば豊臣政権は成立しなかっただろうし、小山評定において徳川家康が豊臣恩顧の大名たちを説得できなかったならば徳川幕府は成立しなかったであろうし、終戦間際の御前会議で昭和天皇が「戦争をやめよう」と発言しなかったならば日本はさらに原爆を落とされ焦土と化して戦後復興もこれほどまでにはできなかったと言えるでしょう。

 今年の春、日光街道ウオーキングというツアーに参加し、栃木県の間々田というところから小山市まで日光街道旧道を歩きました。そのゴール地点が小山城跡という公園になっている場所でしたが、そこに「小山評定跡地」という標識があり、ここで小山評定が開かれたのかと感慨深いものがありました。「小山評定」とは、慶長5年7月25日、下野国(今の栃木県)小山において、家康と会津征伐に従軍していた諸大名によって開かれたとされる軍議のことをいいます。豊臣秀吉死後、豊臣家の奉行であった石田三成と、大老であった徳川家康との間で権力をめぐる争いがあり、石田三成は、一旦はその権力争いに負け、自分の領地である佐和山に引っ込んでいました。ところが、石田三成と意を同じにする会津の上杉景勝が徳川家康に最後通牒を突き付けたため、徳川家康は上杉景勝を成敗する目的で、豊臣秀吉恩顧の大名たちを引き連れて(そのころはまだ名前はついていませんでしたが)日光街道を北上し下野国小山まで来たところで、西において石田三成が徳川家康討伐の兵をあげたという知らせが到着します。これは、石田三成と、上杉家の家老である直江兼続との共謀によるもので、北と西から徳川家康を挟撃するという戦略に基づくものと言われています。徳川家康も、自身を含め多くの豊臣恩顧の大名が上杉征伐に出陣すれば、必ず石田三成が反旗を翻すと想定しており、これをきっかけとして石田三成率いる西軍と雌雄を決する戦いに臨むことを企図していました。
 しかしながら、徳川家の直属軍は嫡男秀忠軍を含めて約5万2000人であり、一方石田三成がかき集めた西軍は8万4000人にも上るため、直属軍だけで戦ったのでは到底勝ち目がなく(実際には、秀忠軍が関ヶ原の戦いに遅参するという大失態を起こしていますが)、小山まで連れてきた豊臣恩顧の大名たちを何としても自軍である東軍に引き込まなくてはなりませんでした。

 そこで、徳川家康は、小山に着陣している全大名を招集して軍議(小山評定)を開くことを決意しました。しかし軍議前夜の時点では、必ずしも小山まで来た大名たちは徳川方につくということを躊躇していました。東軍となることで豊臣秀吉の子秀頼に反旗を翻すことに抵抗を感じていたからです。そこで、徳川家康が事前に取った根回しは、豊臣恩顧の大名の中でも一番の勢力である福島正則を調略したことです。どのように説得したかというと、「これは豊臣家に弓を引くのではない、豊臣秀頼の君側の奸である石田三成を排除するための正義の戦いである。」と石田三成が大嫌いであった福島正則の感情面に訴えることで、まんまと徳川方に引き込んだのです。さらには「明日の軍議においては、まず一番に福島殿から徳川に加勢すると言ってほしい。福島殿がそう言ってくれれば他の大名も賛成してくれるはずだ。」と会議の流れをまず徳川側に持って行くように工作をしました。徳川家康の事前の根回しが効を奏して、実際の小山評定では、福島正則が徳川に味方し、戦いの先陣を切るということをいの一番で表明したことで、どちらに与力すべきか迷っていた各大名も我も我もと東軍として戦うことを表明し、実際、関ヶ原で戦い、西軍に勝利したものです。
 もしこの小山評定において、徳川家康が事前に福島正則を調略しておらず、十財の会議において、誰かが豊臣秀頼の西軍の方が正義であるなどと言ったならば、雪崩を切って多くの大名が西軍に加担するということとなり、徳川家康は関ヶ原を戦えなかったと容易に想像されます。まさに、どちらに転ぶかわからない状況下、徳川家康が薄氷を踏んで会議のイニシアティブをとったということで、日本の歴史を変えるターニングポイントとなった会議なのです。話の落ちとしては、徳川家康に転嫁を取らせた役割をしたにもかかわらず、福島正則はその後改易されて、悲しい晩年を過ごすことになったのは、まさに故事の「狡兎死して走狗烹らる」になってしまいました。
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