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天保の改革時代の人々

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[天保の改革時代の人々]2022.5.1

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 旅行会社主催の中山道を歩くというウォーキングに参加していますが、最近、日本橋から巣鴨まで歩くというコースと、深谷から本庄まで歩くというコースに参加しました。偶然なのですが、日本橋から巣鴨までのコースの途中の文京区に大円寺というお寺があり、そこに高島秋帆のお墓がありました。深谷から本庄まで歩いたときには、岡部駅の近くの田畑の中に高島秋帆幽囚の土地という石碑があり、くしくも長崎の人である高島秋帆関係のモニュメントが中山道沿いにあったのに驚きました。

 高島秋帆というのは、水野忠邦の天保の改革時代から幕末まで活躍した人で、最後は明治維新を見ることなく死んでしまった人です。長崎の町年寄の息子として生まれ、長じては長崎における貿易を担当する長崎会所の幹部である調役にまで就任しました。長崎貿易に携わっている時代に、オランダ人から西洋砲術を学び、自ら青銅製の大砲まで製作をしたほど、砲術に関わる大家と言われるようになり、江戸幕府に火砲の近代化を訴える意見書を提出するまでになったところ、1841年、ついに幕府からの要請で武蔵国徳丸が原で西洋砲術による軍事演習を行いました。これは公開されており、一般町民までが見物に来ていたとのことです。ちなみに、この徳丸が原というのは、現在の高島平であり、まさに高島秋帆の名前が地名になったものです。徳丸という地名も残っていますが、砲術演習を行った徳丸が原は一面薄の生える広大な土地であり、現在の高島平団地がほぼ徳丸が原を有効活用したことになります。
 徳丸が原での砲術演習以降、高島秋帆は幕府に徴用されることとなったのですが、人が出世すればそれを妬むものが出てくるのが世の常であり、天保の改革を推進していた老中水野忠邦の腹心であった鳥居燿蔵が、高島秋帆の長崎会所時代の所業についてあることないこと申し立てて、水野忠邦の承認を得て逮捕投獄してしまい、最終的に深谷と本庄の間にあった岡部藩において幽閉されることとなりました。この幽閉は何と10年後のペリー来航まで及び、1853年にようやく出獄し、その後は幕府の砲術訓練に尽力をしたのですが、やはり長きにわたる幽囚により最新の技術へのキャッチアップが難しかったようです。それでも、江川太郎左衛門など優秀な弟子たちを輩出しました。

 このように天保の改革の時代から幕末までという激動の時代を生きた波乱万丈の高島秋帆の人生ですが、その敵役としての鳥居耀蔵も波瀾万丈の(多分に悪役としての)人生と言えるかもしれません。鳥居耀蔵は、根っからの武士の家に生まれたのではなく、幕府の儒学のトップである林大学頭の息子として生まれ、2500石の旗本の鳥居家の養子となったものです。徳川家慶の時代となり、老中となった水野忠邦が天保の改革を始めます。奢侈豪勢を禁止する政策を取ったため反対意見が噴出したので、それを取り締まるために水野忠邦は鳥居耀蔵を目付・南町奉行として任命し、取り締まりを強化していきます。儒学者の家に生まれたためか、鳥居耀蔵は蘭学者に対する反発が強く、その頃、幕府の鎖国政策を批判した渡辺崋山、高野長英らを徹底的に弾圧します。また、水野忠邦の贅沢取締政策に批判的な北町奉行であった遠山の金さんこと遠山景元をその地位から追い出してしまいます。そして、上述した高島秋帆の濡れ衣逮捕事件です。日本の歴史において、鳥居耀蔵はヒールとしてきっと5本の指に入るほどの悪役でした。その後も色々な事件があり、結局は水野忠邦失脚後は、水野を裏切って生き残りを図りましたが、水野が復権したら鳥居も失脚し、最後は水野も再失脚するという何が何だかわからない結末となりました。鳥居耀蔵は幽閉のみとなりましたが、何と明治維新により恩赦となったという波乱万丈の人生を送りました。

 本日の話の落ちは特段ないのですが、高島秋帆にしても、鳥居耀蔵にしても、善人役であれ、悪人役であれ、歴史の神によりその身があっちこっちに振り回されても結局最後は両人とも畳の上で死ねたということで、結論同じだったのは皮肉であると言えるのではないでしょうか。この天保の改革における鳥居耀蔵の活躍(?)を描いたのが松本清張の「天保図録」です。もちろん史実にフィクションを織り交ぜての話ですが、実際にもこのようなことが起きたのだろうなと想像される名作だと思いますので、お時間のある方はぜひともご一読されてはいかがでしょうか。
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