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二つの總持寺

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[二つの總持寺]2024.4.1

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 元旦の能登半島地震では、多くの人命が失われ、多大な建物の倒壊が生じましたこと、心よりお悔やみ申し上げます。さて、地震のニュースで輪島市とか、珠洲市とかの他に門前町という名前が出ていました。この門前町が何の門前かというと、總持寺という曹洞宗のお寺のことです。ところで、関東地方には、總持寺と言われる有名な大寺が二つあります。一つは、横浜市鶴見区にある曹洞宗の總持寺、もう一つは、足立区にある真言宗の總持寺、通称である西新井大師で有名なお寺です。それでは、石川県門前町にある曹洞宗の總持寺と、横浜市鶴見にある曹洞宗の總持寺とは、どのような関係があるのでしょうか。

 曹洞宗のホームページには、「曹洞宗とは『道元禅師』が正伝の仏法を中国から日本に伝え、「瑩山禅師」が全国に広められ、「曹洞宗」の礎を築かれました。このお二方を両祖と申し上げます。曹洞宗には大本山が永平寺と總持寺と二つありこれを両大本山と言います」とあります。すなわち、道元が建立したのが大佛寺、後の「永平寺」であり、瑩山が能登半島にあった諸嶽観音堂の住職からこの寺を譲り受け、改名したのが「總持寺」ということです。この總持寺は、能登で570余年活動していましたが、明治になって1898年、火事で焼失したため、1911(明治44)年、横浜市鶴見区へ大本山を移転したということです。しかしながら、能登の總持寺も、大本山の機能は鶴見に移したものの、祖廟として堂宇が再建され、山内約2万坪の境内には焼失をまぬがれた伝燈院、慈雲閣、経蔵などのほかに七堂伽藍も再建され、いわゆる聖地として残っているとのことです。大本山の話に戻りますが、何故曹洞宗は大本山が二つに分かれたかというと、永平寺三世徹通の時代に道元の只管打坐に基づく厳格な禅風を守ろうとする保守派と柔軟に教えを広めようとする徹通等進歩派に分かれたことが原因とのことです。保守派が福井県の永平寺を中心に活動し、進歩派が能登の總持寺を中心に活動をしたことにより、二つの大本山が生じることとなったようです。

 さて、西新井大師である總持寺についてですが、正式には五智山遍照院總持寺といい、真言宗豊山派の寺院です。真言宗は、ご存じの空海(弘法大師)によって開かれた宗派ですが、まず高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創した後、嵯峨天皇より勅賜された教王護国寺(京都の東寺)を真言宗の"根本道場"としました。すなわち、会社で言えば、高野山が和歌山本社で、東寺が京都本社という、地方企業によくある地方本社、東京本社という二本社体制ということになりましょうか。司馬遼太郎も言っていますが、最澄が最後まで悩み続けた天台宗と違い、真言宗は、空海によりほぼ完璧に教義が完成されてしまったので、平安時代半ばまで宗内論争は殆どありませんでした。しかし、11世紀末に、覚鑁(かくばん)という人が、(これも司馬遼太郎の言葉を借りますと)真言密教の主尊である大日如来が、不動の光明でなく、救済をするときには阿弥陀如来に変わるという思想を打ち立てました。これは、平安時代中期から、阿弥陀如来を信仰するという浄土教が広まったことに覚鑁も影響されたのではないかと思われるのですが、いかんせん、今までに真言宗内部で異論を唱えたものがいなかったので、覚鑁は正統派から批判のあらしを受けて、とうとう高野山を追放されることとなりました。覚鑁は、高野山を降り、同じ和歌山県内に根来寺という別派の本山を開いたのです。以後、高野山の正統派を「古義」真言宗と言い、根来寺系を「新義」真言宗ということになりました。新義真言宗の内部でも、分派がなされ、京都の智積院を本山とする「智山派」、奈良の長谷寺を本山とする「豊山派」が現在、新義真言宗においては大きな勢力を保っているといえるでしょう。智山派、豊山派とも本山のある関西よりも関東で勢力が強く、大きな寺としては、川崎大師とか、成田不動などが挙げられるでしょう。西新井大師も豊山派の寺院であり、江戸時代に興隆しましたが、これら新義真言宗の寺院が関東で発展したのは、徳川家康、幕府の保護があったからと言えましょう。すなわち、新義真言宗の総本山である根来寺が豊臣秀吉に対抗したために全山焼き討ちにあい、瀕死の状態にあったのを徳川家康が保護したということがあったからでしょう。徳川家康は、宗教については分離政策を実行しており、一つの宗教に力が集中しないようにしたことが有名です。例えば、浄土真宗は、本願寺派と大谷派に分けさせてあれほど実力があったのを分散させていますし、浄土宗については、江戸に芝増上寺を開基し、天台宗については、上野寛永寺を東叡山(東の比叡山)としており、やはり宗教の力を分散させる政策を取っています。(曹洞宗については、永平寺派と總持寺派に分かれたのが、徳川幕府の影響かどうかは不勉強で何とも言えませんが。)

 二つの總持寺についても、大宗教における分派活動による流れを受けてできたものであることは、改めて宗教というのは、答えがないだけに(死んでみないと極楽があるのかどうかわからない)、分派しやすいものだということを思い知らされた次第です。
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