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福井の歴史を楽しむ

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[福井の歴史を楽しむ]2024.9.1

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 この夏休みは、北陸新幹線が敦賀まで延伸したことを利用して、3泊4日で福井県を旅行しました。改めて、福井(旧越前国)には、色々と歴史を感じるスポットが多いなと思った次第です。
 まず初日は、東京駅から敦賀駅まで、「かがやき」号で約3時間で到着しました。早速駅前でレンタサイクルを借り、敦賀市内を疾走しました。敦賀で歴史に関する所で見たかったのは、「金ヶ崎城跡」と「松原客館跡」です。金ケ崎城とは、織田信長が朝倉氏征伐に大軍を率いて敦賀まで達したときに落城させた朝倉側の城です。その金ケ崎城に入っていよいよ朝倉攻めと軍議を開いているときに、信長の妹婿である浅井長政が裏切って、北近江から敦賀に大軍を率いて向かっているという報が入りました。敦賀は狭いところですから、浅井軍と朝倉軍に挟み撃ちに合えば幾ら信長とはいえ大敗を喫してしてしまうことは火を見るより明らかです。そこで、信長はどうしたかというと、自軍を金ヶ崎城に残して自分は供回りの少人数で、若狭の山越えで京都まで逃げ帰ったといういわゆる「金ヶ崎の退き」という有名な話の舞台です。実際に行ってみますとなるほど海に突き出た小さな半島に城跡があり、確かに浅井・朝倉から挟み撃ちされればひとたまりもないなというのがよくわかります。信長の凄みは、自分さえ助かればあとは何とでもなるということで秀吉や家康をしんがりにしてとにかく大将の自分が生き残るということを瞬時に決断したことだと思います。
 もう一つの松原客館というのは、NHKの大河ドラマ「光る君へ」でやっていたのですが、紫式部の父親である藤原為時が越前国司として赴任したときに、宋人が越前に来航した際、宿泊させて交渉をした施設なので、多分、気比の松原という有名な景勝地の側にあるのではないかとあたりを付けて探してみたのですが、結局わからずじまいでした。後で調べたら、現在松原客館がどこに所在したかが不明であるとのことでした。

 二日目は、若狭の小浜に行きました。小浜ではぜひ鯖街道を見てみたいと思いまして、その起点にある鯖街道ミュージアムに行ってきました。鯖街道というのは、ブラタモリでもやっていましたが、若狭で取れたサバを塩漬けにして大消費地であった京都まではるばる山を越えて運んだというルートです。色々なルートがあったようですが、起点は小浜市、終点は京都市左京区の出町柳、距離的には約70キロということで、鯖商人は、丸一昼夜山越えをして京都まで運んだとのことです。終点の出町柳は学生街にあるのでよく知るところで、今回起点に立ち、「ここから京都の出町までサバを運んでいたのか」ということでまた感慨にふけるものがありました。

 三日目は、福井市まで移動して、一乗谷と永平寺を訪問しました。一乗谷は、先述した朝倉氏が初代朝倉孝景から約100年、拠点とした政治都市であり、城下町であるところです。名前のとおり“谷”に都市が作られていたもので、谷の入口と出口を封鎖することで鉄壁の防衛力を有するものであり、朝倉氏としては長年にわたり存続し得た原因の一つがこの一乗谷と言えると思います。一条谷の入口に新設された遺跡博物館があり、そこから連絡バスで谷に入っていくと往時を再現した復元街並みがでてきました。確かに、この谷の中では独立を保てることができたのかもしれませんが、逆にいうと谷の大きさ以上には発展できないのであり、やはりそこが織田信長や豊臣秀吉とは考え方が違っていたのが、朝倉氏が滅亡した欠点になったのではないかと思った次第です。一乗谷から一山ふた山越えて永平寺に行きましたが、うーん、どうも寺の建物が鉄筋コンクリートだったりして、観光寺院化しており、正直今一つ感動がありませんでした。曹洞宗の別の本山である横浜市鶴見の總持寺の方がまだ落ち着いた感じがあるのですが、何と言いますが同じ禅宗の臨済宗の寺院、例えば京都の南禅寺だったり、大徳寺だったりと比べて何か落ち着きというものが感じられなかったのが残念でした。

 四日目は、日本一短い手紙で有名な丸岡城に行って、その後福井市内を見物しました。丸岡城は、まあこんなものかという程度の感じでしょうか。福井市内に戻ってまず柴田神社に行きました。名前からわかりますとおり、柴田勝家が朝倉氏滅亡後、一向一揆を平定して、今の福井市である北ノ庄に城を築き、城下町を整備したのですが、その北ノ庄城跡にあるのが柴田神社です。神社自体は狭い敷地ですが、多分その後に松平氏により作られた福井城まで北ノ庄城だったのではないかと想定されます。柴田勝家は、賤ケ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、北ノ庄城まで逃げ帰り、最早これまでと妻であるお市の方と自害したのですが、三人娘は秀吉が引き取り、長女の茶々は秀吉の側室となり秀頼を生み、次女のお初は京極氏の正室となり、三女のお江は二代将軍徳川秀忠の正室となり家光を生んだのは有名な話です。福井城は、本丸の中に福井県庁などがあり、往時をしのぶところがあまりなく残念でしたが、初代福井藩主の結城秀康の像がありました。結城秀康は、徳川家康の次男として生まれたのですがあまり愛情が注がれず、結城家の養子となり、豊臣秀吉の養子となり、苦労しましたが最終的に福井藩の藩主となり、幕末まで越前松平氏として続きました。

 と言ったわけで、福井の歴史を巡る旅でしたが、やはり最近は地方に行くとバスの本数は少ないし、電車もなかなか来ないということで、レンタカーを借りないと有効な時間の使い方ができないのかと改めて思った次第です。
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